October 25,2005
神啊!--西炯子的《少年》①

西炯子,《少年》,小學館 (全2冊?日本AMAZON的圖例好醜><)
馬橋人的「神」用來形容一切違反常規和常理的行為。在這裡,人們最要緊的是確認了庸常性質,確認人只能在成規中度日。任何違反成規的行為,從本質上說都不是人的行為,只可能來自冥冥中的莫測之物,來自人力之外的天機和天命。不是神經質(神的第一義),就是神明(神的第二義)。馬橋人用一個那神字統括這兩種意義,大概認為兩者的差別並不重要。一切神話都是從神經質的想入非非開始。
--韓少功,《馬橋辭典》
今天中午開完會,和wolfenstein去逛紀伊國屋的時候突然想起西炯子,找了一下,竟然發現STAY系列竟然又有新作了!而且竟然又是山王滿和佐藤敦士的故事!天呀!萬歲!(心)而且,山王滿怎麼越畫越羅啦(超震驚)……不過因為這系列前一本《雙子座的女人》比較地雷,紀伊國屋的匯率又是接近0.5的天價,所以只先買了一本。
西炯子的佈局到了這一本簡直是出神入化。
雖然說寫作本來就很依賴想像,但是我從來沒有看過這樣編的日常劇,更別提在戀愛故事的類型中看到這麼豐富的日常細節了!簡直就像看《牯嶺街少年殺人事件》或者《初代剛彈》一樣過癮。和岩井俊二的處理不同,她並不是採用一種「箱庭化的時空」(註)。我實在是不知道她的故事來源是從哪裡冒出來的,如果說完全沒有滲入某些回憶和經驗,這麼不著痕跡的在作品中放那麼多訊息,不帶有現代主義那麼概念先行的匠氣,也不是交代巴爾札克時代那種疊床架屋的生平歷史,竟然可以這麼流利地鋪排人物,保持瑣碎的日常氛圍卻又不流於沉悶,真是令人難以置信。雖然有人可能會認為她在笑點和嚴肅場面的切換上太過迅速,但是對我來說卻形成一種更強的張力,和大地丙太郎或達利歐‧弗相同,透過鬧劇式的對照達到一種微妙的平衡。
真是太強了(嘆)。山王滿個性之神也一如以往,這是近年來少數幾個讓我印象極為深刻的漫畫人物(另一個例子則是森田忍,我對這種神人好像沒什麼抵抗力@@不過森田忍太過刻意搞笑反而顯得很做作,整個角色不如山王滿塑造得那麼豐富)。我要怎樣才能寫出這種劇本呢?明天決定順便連《ハチクロ》⑧一起帶回家(心)。我好像該下決心不要再忍受台灣翻譯了。
《少年》在日本已經連載結束,現在西炯子又有新作了。有機會一定要買本《FLOWERS》來讀。或許是漫畫閱讀的一線生機?!現在天天抱怨沒好作品可看><
註:押井守在〈映画とは実はアニメションだった〉(出自ユリイカ?)這篇訪談中,提到日本動漫作品有一種把故事建立在限定狹窄時空中的傾向,就像在沙箱中玩家家酒,擺設桌椅和爸爸媽媽一樣(日本稱為箱庭),假設「如果如何如何的話……」,在這種框架下實現某種願望。我個人認為這種創作心態並不應該單以現代商業作品滿足讀者慾望來看,而更應該當成某種日本思考模式的本質來理解。對於創作思潮而言,這是相當特別的。近來開始讀《小說的興起》,提及西方古典作品在17世紀之前都是建立在一個模糊的時空連續體中,古希臘、中世紀、或者當代的差異並不明顯,也不考就,因為古典作品最重視的是永恆的普遍性,不管故事和人物發生在什麼時代,都沒有太大的差別。甚至在莎士比亞去世三十年之後,「年代錯誤」(anachronism)這個字才首度出現在英文之中。對於中國來說,史傳傳統紀實與補史的態度對於中國書寫故事和想像力的發展也有極大的干預和影響。
【延伸閱讀】
◎《FLOWERS》官網上竟然有連載作者群的訪談,最重要的當然是西炯子啦!趕快去看!
西炯子的佈局到了這一本簡直是出神入化。
雖然說寫作本來就很依賴想像,但是我從來沒有看過這樣編的日常劇,更別提在戀愛故事的類型中看到這麼豐富的日常細節了!簡直就像看《牯嶺街少年殺人事件》或者《初代剛彈》一樣過癮。和岩井俊二的處理不同,她並不是採用一種「箱庭化的時空」(註)。我實在是不知道她的故事來源是從哪裡冒出來的,如果說完全沒有滲入某些回憶和經驗,這麼不著痕跡的在作品中放那麼多訊息,不帶有現代主義那麼概念先行的匠氣,也不是交代巴爾札克時代那種疊床架屋的生平歷史,竟然可以這麼流利地鋪排人物,保持瑣碎的日常氛圍卻又不流於沉悶,真是令人難以置信。雖然有人可能會認為她在笑點和嚴肅場面的切換上太過迅速,但是對我來說卻形成一種更強的張力,和大地丙太郎或達利歐‧弗相同,透過鬧劇式的對照達到一種微妙的平衡。
真是太強了(嘆)。山王滿個性之神也一如以往,這是近年來少數幾個讓我印象極為深刻的漫畫人物(另一個例子則是森田忍,我對這種神人好像沒什麼抵抗力@@不過森田忍太過刻意搞笑反而顯得很做作,整個角色不如山王滿塑造得那麼豐富)。我要怎樣才能寫出這種劇本呢?明天決定順便連《ハチクロ》⑧一起帶回家(心)。我好像該下決心不要再忍受台灣翻譯了。
《少年》在日本已經連載結束,現在西炯子又有新作了。有機會一定要買本《FLOWERS》來讀。或許是漫畫閱讀的一線生機?!現在天天抱怨沒好作品可看><
註:押井守在〈映画とは実はアニメションだった〉(出自ユリイカ?)這篇訪談中,提到日本動漫作品有一種把故事建立在限定狹窄時空中的傾向,就像在沙箱中玩家家酒,擺設桌椅和爸爸媽媽一樣(日本稱為箱庭),假設「如果如何如何的話……」,在這種框架下實現某種願望。我個人認為這種創作心態並不應該單以現代商業作品滿足讀者慾望來看,而更應該當成某種日本思考模式的本質來理解。對於創作思潮而言,這是相當特別的。近來開始讀《小說的興起》,提及西方古典作品在17世紀之前都是建立在一個模糊的時空連續體中,古希臘、中世紀、或者當代的差異並不明顯,也不考就,因為古典作品最重視的是永恆的普遍性,不管故事和人物發生在什麼時代,都沒有太大的差別。甚至在莎士比亞去世三十年之後,「年代錯誤」(anachronism)這個字才首度出現在英文之中。對於中國來說,史傳傳統紀實與補史的態度對於中國書寫故事和想像力的發展也有極大的干預和影響。
【延伸閱讀】
◎《FLOWERS》官網上竟然有連載作者群的訪談,最重要的當然是西炯子啦!趕快去看!
引用URL
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回應文章 
西炯子之強,在連續看完楊德昌《恐怖份子》和楚浮《四百擊》之後都毫不遜色。回家途中,在捷運上開始讀《少年》②,邊看邊發抖,笑到令人心痛。我曾經讀過日本幾篇對西炯子stay系列作品的評論,認為她根本不像漫畫,描寫到一種幾乎是切身體驗的真實感。我非常非常認同,而且,不只是女孩,我對她描述青春期男孩的心理如此貼近更是五體投地。岩井俊二的青春還是箱庭中某種美化的鄉愁,但是西炯子的STAY系列,絕對更貼近某些真實的記憶。昨晚看完訪談,這個系列的確和她自己過去的生活體驗有關,她最愛的是廣島腔的日文,很久很久以前就想畫在鄉下高中(而非東京)發生的故事。站在這個擺脫首都的角度,還可以想到藤井滿的《上京日和》。我想到波赫士在談真實的某些段落,還有今天上研究指導和芳英老師談《馬橋詞典》延伸到自己最近寫作感受的經驗侷限性,和張愛玲的冷與痛。
啊啊,好久沒看到這種讓人感動到想要自己翻譯以免被爛翻譯糟蹋的作品……不過也真的有很多部分很難用中文傳達。全身冒冷汗,繼續朝結局前進。
啊啊,好久沒看到這種讓人感動到想要自己翻譯以免被爛翻譯糟蹋的作品……不過也真的有很多部分很難用中文傳達。全身冒冷汗,繼續朝結局前進。
Posted by 夕月
at October 26,2005 21:58
現在正在翻譯去年發現的,STAY開頭那兩本的很棒的評論。
仔細翻了一下網站,果然在日記區裡發現站長的新書心得啊:)萬歲!
http://wagamamakorin.client.jp/diary23.html
2005.03.10
「STAY ラブリー 少年 1」 西炯子
「お手々つないで」の続き。佐藤敦士と山王みちるのお二人さんの鹿児島でのあれやこれや。
前作の「双子座の女」も悪くはなかったけれども、結局アレってホモとおコゲさんの話といったらそれまでという感じで(―――「刈川って何者」という部分が説明できていたら名作になっていたと思う)、個人的にはちょっと微妙だったけれども、比べてやっぱこっちは面白い。
今の西炯子が怖いのは、佐藤敦士のようなどう見てもカッコ悪くてケッタイで童貞臭い、しかしリアリティーだけはてんこもりの「思春期の少年」そのものが描けちゃうことだと思う。少女漫画には「作者にとっての理想的男性像」てのが必ずどっかに出てきてしまうものがほとんどだけれども、彼女の作品にはあんまりそれを感じないんだよなぁ。
石に齧りついても受験勉強、でもその合間にちょっとオナニー、って結局一晩で何回もイタしてそっちメインになっちゃったり、エロ小説図書館で借りて勝手に恥ずかしがったり、今回登場のみちるの幼馴染、上温湯渚の知らないみちるの話を聞いて勝手に優越感感じたり、ああ、男って馬鹿だなぁ、と思うことしきり。
こうした視線はもちろん女性側にも注がれていて、大して親しくない子と『流行っていたから』という理由で交換日記をしたり、『せっかくだから』という理由で特に意味なく男と同じ服を買ったり、と、こちらもまた「だから女って生き物はわかんねぇんだよ」とおもわず詠嘆してしまう。
それにしても佐藤敦士が着々とドロップアウトの路へ進んでいるようで見てみて楽しい。レールの上を走る電車のごとく決まった道筋で人生辿ることができるなど、はっきりいって若人の奢り。裁判官なんかなるななるな。ぬははは。
もっといっぱい傷ついて、もっといっぱい失敗しろ。とちょっと年上の読者から意地悪な一言を贈りたい。
http://wagamamakorin.client.jp/diary.html
2005.10.10
西炯子 「STAY ラブリー 少年 2」
佐藤敦士と山王みちるの物語のオーラス、なのか?
やっぱりこのSTAYシリーズは良くって、今回も大変おいしゅうございましたが、話の落としどころが、うーん、なんというか、結局ふたりはよくある男女になってしまったかな、と思ったりもしたりして。や、面白いんですよ、たしかに。西炯子センセは、淡々として茫漠とした「名づけられることのない青春」ってのを短編マンガにして切り取るのがやたら上手い作家で、このSTAYシリーズもこういった地点からスタートして、で、図らずも、佐藤・山王の物語が西センセにとってはそこそこの長編になったわけだけれども、やっぱり西炯子センセは、長編は短編に比べると得意ではないのかな、と思った。フツーの彼氏・彼女になる前のうだうだ感から先ってのが、案外描けないタイプなのかも。
ここまで来たなら、もっと大河にしたっていいんでないのかなぁ?てゆーか、わたしは佐藤君の青春の蹉跌を私はもっと見たい。高3まででなくさ、受験に失敗したり、演劇に本気になって変な劇団立ちあげたり、売れない童話を書いたり、親と大喧嘩したり、そういう佐藤君が見たいぞ、と。写真家目指して高校退学する井上みたいに、佐藤君のその後の荒波もみたいぞ。と。色んな挫折を味あわせて、で、一方の山王は佐藤くんとすれ違ったり、よりそったり、って感じで。ここで終わりだと人生の荒波を引っかぶる直前で終わった、って感じで、ちょいものたりない。こっから先はセンセは書きたくないのかなぁ……。
仔細翻了一下網站,果然在日記區裡發現站長的新書心得啊:)萬歲!
http://wagamamakorin.client.jp/diary23.html
2005.03.10
「STAY ラブリー 少年 1」 西炯子
「お手々つないで」の続き。佐藤敦士と山王みちるのお二人さんの鹿児島でのあれやこれや。
前作の「双子座の女」も悪くはなかったけれども、結局アレってホモとおコゲさんの話といったらそれまでという感じで(―――「刈川って何者」という部分が説明できていたら名作になっていたと思う)、個人的にはちょっと微妙だったけれども、比べてやっぱこっちは面白い。
今の西炯子が怖いのは、佐藤敦士のようなどう見てもカッコ悪くてケッタイで童貞臭い、しかしリアリティーだけはてんこもりの「思春期の少年」そのものが描けちゃうことだと思う。少女漫画には「作者にとっての理想的男性像」てのが必ずどっかに出てきてしまうものがほとんどだけれども、彼女の作品にはあんまりそれを感じないんだよなぁ。
石に齧りついても受験勉強、でもその合間にちょっとオナニー、って結局一晩で何回もイタしてそっちメインになっちゃったり、エロ小説図書館で借りて勝手に恥ずかしがったり、今回登場のみちるの幼馴染、上温湯渚の知らないみちるの話を聞いて勝手に優越感感じたり、ああ、男って馬鹿だなぁ、と思うことしきり。
こうした視線はもちろん女性側にも注がれていて、大して親しくない子と『流行っていたから』という理由で交換日記をしたり、『せっかくだから』という理由で特に意味なく男と同じ服を買ったり、と、こちらもまた「だから女って生き物はわかんねぇんだよ」とおもわず詠嘆してしまう。
それにしても佐藤敦士が着々とドロップアウトの路へ進んでいるようで見てみて楽しい。レールの上を走る電車のごとく決まった道筋で人生辿ることができるなど、はっきりいって若人の奢り。裁判官なんかなるななるな。ぬははは。
もっといっぱい傷ついて、もっといっぱい失敗しろ。とちょっと年上の読者から意地悪な一言を贈りたい。
http://wagamamakorin.client.jp/diary.html
2005.10.10
西炯子 「STAY ラブリー 少年 2」
佐藤敦士と山王みちるの物語のオーラス、なのか?
やっぱりこのSTAYシリーズは良くって、今回も大変おいしゅうございましたが、話の落としどころが、うーん、なんというか、結局ふたりはよくある男女になってしまったかな、と思ったりもしたりして。や、面白いんですよ、たしかに。西炯子センセは、淡々として茫漠とした「名づけられることのない青春」ってのを短編マンガにして切り取るのがやたら上手い作家で、このSTAYシリーズもこういった地点からスタートして、で、図らずも、佐藤・山王の物語が西センセにとってはそこそこの長編になったわけだけれども、やっぱり西炯子センセは、長編は短編に比べると得意ではないのかな、と思った。フツーの彼氏・彼女になる前のうだうだ感から先ってのが、案外描けないタイプなのかも。
ここまで来たなら、もっと大河にしたっていいんでないのかなぁ?てゆーか、わたしは佐藤君の青春の蹉跌を私はもっと見たい。高3まででなくさ、受験に失敗したり、演劇に本気になって変な劇団立ちあげたり、売れない童話を書いたり、親と大喧嘩したり、そういう佐藤君が見たいぞ、と。写真家目指して高校退学する井上みたいに、佐藤君のその後の荒波もみたいぞ。と。色んな挫折を味あわせて、で、一方の山王は佐藤くんとすれ違ったり、よりそったり、って感じで。ここで終わりだと人生の荒波を引っかぶる直前で終わった、って感じで、ちょいものたりない。こっから先はセンセは書きたくないのかなぁ……。
Posted by 夕月
at October 27,2005 04:35
一邊翻譯一邊想著,啊啊,這樣寫感想好棒呀。我應該多學一下。平常因為懶得舉例,所以常常都只是亂記只有自己看得懂的聯想,一堆文學術語飛來飛去也不是辦法。不過《好讀》大概也不太可能允許我這樣寫吧(偏頭)。
火星TORO竟然嘲笑我(踹)。
火星TORO竟然嘲笑我(踹)。
Posted by 夕月
at October 27,2005 04:50
其實談"箱庭" 押井根本不可能自外於此
他的作品如迷宮物件, Talking Head 正是徹徹底底的箱庭作品
而這些作品多麼沒有商業考慮 也是有目共睹的
他的作品如迷宮物件, Talking Head 正是徹徹底底的箱庭作品
而這些作品多麼沒有商業考慮 也是有目共睹的
Posted by wolfenstein
at October 29,2005 14:31
姆,角度不一樣嘛:P
倒是因為箱庭的緣故
終於發現上次讀手塚《三個阿道夫》為什麼我會覺得那麼不舒服的原因
有機會可以談談
和富野比較尤其明顯
如果他們同樣是箱庭
仍舊有具體操作上的明顯差異
這時候就發現用箱庭這個概念來作技巧分析的不足和限制了
倒是因為箱庭的緣故
終於發現上次讀手塚《三個阿道夫》為什麼我會覺得那麼不舒服的原因
有機會可以談談
和富野比較尤其明顯
如果他們同樣是箱庭
仍舊有具體操作上的明顯差異
這時候就發現用箱庭這個概念來作技巧分析的不足和限制了
Posted by 佐藤敦士嗶嗶嗶
at October 30,2005 01:06