February 21,2008
要不要讓小學生學英文?
日本政府決定小學五年級開始將英文必修化
以下文章是內田樹對這個問題的看法
在台灣每天用外語生活的我 非常同意他的看法
以下是轉載:
小学生に英語を必修させる必要があるのか?
文科省は学習指導要領を改訂し、小学校五年六年から英語を必修化することを決めた。
愚かなことである。
日本語がこれだけできなくなっている知的状況で二カ国語を学ばせる意味がどれほどあるのか。
特にオーラル中心の語学教育の子どものメンタリティへの影響については、もうすこし真剣に考えた方がよろしいのではないか。
英語運用能力を重視する教育機関で何が起きているか、みなさんはご存じであろうか。
論理的には当たり前のことであるが、それは「英語運用能力の高さにもとづく人間的価値のランキング」である。
「英語が他の教科に比較して際だってよくできる」という条件をクリアーしてその教育機関に入学した学生は、当然ながら、「英語ができることは、きわだってすぐれた人間的能力である」というイデオロギーのかたくなな信奉者になる。
これはごく自然なことであるから非とするには当たらない。
けれども、そのような学生たちの教場でのふるまいは場合によっては、いささか常軌を逸してくる。
東京の某一流私学は「英語だけで授業をする学部」を新設した。
国際人を育てるためである。
ところがこの学部では授業がうまく成立しない。
というのはここの学生たちは「一番英語がうまい人間」を知的位階の最上位に置いてしまうことを習慣づけられているので、教壇に立っている日本人教師よりもフロアにいるネイティヴの留学生や帰国子女の方が英語が流暢な場合には、教師よりも「発音のいい人間」の意見に従う傾向があるからである。
それも無理はない。
現に私自身の教壇における知的威信の80%くらいは私の日本語話者としての語彙の豊富さと落語に学んだ滑舌のよさによって担保されているからである。
同一のコンテンツであっても、私が仮に外国人であり、学習した日本語で論じた場合には、どれほど文法的に正確な日本語で講じても、学生たちはそれほどには聞き入ってはくれぬであろう。
というわけで、そういうところを卒業した学生たちは「英語がぺらぺらしゃべれる人の告げる情報の重要性と客観性を過大評価する傾向」を刷り込まれて実社会に登場する。
これはもちろんゴールドマンサックスとかウォルマートとかの日本支社のマネージャーからすればたいへん雇用することの楽な労働者であるが、そうではない会社ではあまり役に立たない。
なにしろ、そういう会社では彼または彼女より英語がうまい人間があまりいないからである。
しかるに彼らは「英語がうまい人間の発信する情報の重要性と客観性を過大評価する傾向」を血肉化しているので、いきおい上司や先輩やクライアントよりも「自分の言うことの重要性と客観性を過大評価する」人間となる。
こういう人間は私どもの社会では総じて「バカ」というふうに呼称される傾向にあるので、彼らの企業内部的身分はあまりプロミシングなものとはならない。
けにゃらら大学の総合政策学部はたいへんに英語のよくできる学生を世に送り出したのであるが、あまりに英語運用能力がすぐれ上司に経営学の講義をしてくれたりするのでそれほど英語もできないしMBAも持っていない上司たちからは「使いにくい」ということで現在では企業サイドからは「できれば採用したくない学部」にランクされてしまった。
りにゃらら大学の総合政策学部はそのあとを追って創設されたのであるが、今年の志願者数を見るとなんと前年比39%という悲惨な数値であった。
たにゃらら大学も英語運用能力と国際性の育成を謳って創設されたが、その卒業生の事績として最初に新聞に出たのは放火犯であった(それ以後彼以外の卒業生についてメディアで報じられた例を私は知らないので、その大学は私にとっては今のところ「第一期生で放火犯を出した大学」のままである)。
わにゃらら大学では英語能力だけで人間を価値づける学生を組織的に輩出しそうな気配で、その学部で現に教鞭を執っている先生から「このままではどうなるか心配です」とうかがったことがある。
ともあれ、外国語運用能力をあまり重視することに私はひさしく外国語で飯を食ってきた人間(ほんとに食っていたのよ)の一人として懐疑的である。
外国語なんて大きくなってからで十分である。
子どものときはそれよりも浴びるように本を読んで、音楽を聴いて、身体を動かして、お絵かきをして、自然の中を走り回り、家のかたづけやら皿洗いやら廊下の雑巾がけなどをすることの方がはるかにはるかにたいせつである。
外国語は「私がそのような考え方や感じ方があることを想像だにできなかった人」に出会うための特権的な回路である。
それは「私が今住んでいるこの社会の価値観や美意識やイデオロギーや信教」から逃れ出る数少ない道筋の一つである。
その意味で外国語をひとつ知っているということは「タイムマシン」や「宇宙船」を所有するのに匹敵する豊かさを意味する。
けれども、それはあくまで「外部」とつながるための回路であって、「内部」における威信や年収や情報や文化資本にカウントされるために学習するものではない。
外国語は「檻から出る」ための装置であって、「檻の中にとどまる」ための装置ではない。
役人たちは国民を「檻の中に閉じ込める」ことを本務としている。
その人々が外国語学習の本義を理解していると私は考えることができないのである。
以下文章是內田樹對這個問題的看法
在台灣每天用外語生活的我 非常同意他的看法
以下是轉載:
小学生に英語を必修させる必要があるのか?
文科省は学習指導要領を改訂し、小学校五年六年から英語を必修化することを決めた。
愚かなことである。
日本語がこれだけできなくなっている知的状況で二カ国語を学ばせる意味がどれほどあるのか。
特にオーラル中心の語学教育の子どものメンタリティへの影響については、もうすこし真剣に考えた方がよろしいのではないか。
英語運用能力を重視する教育機関で何が起きているか、みなさんはご存じであろうか。
論理的には当たり前のことであるが、それは「英語運用能力の高さにもとづく人間的価値のランキング」である。
「英語が他の教科に比較して際だってよくできる」という条件をクリアーしてその教育機関に入学した学生は、当然ながら、「英語ができることは、きわだってすぐれた人間的能力である」というイデオロギーのかたくなな信奉者になる。
これはごく自然なことであるから非とするには当たらない。
けれども、そのような学生たちの教場でのふるまいは場合によっては、いささか常軌を逸してくる。
東京の某一流私学は「英語だけで授業をする学部」を新設した。
国際人を育てるためである。
ところがこの学部では授業がうまく成立しない。
というのはここの学生たちは「一番英語がうまい人間」を知的位階の最上位に置いてしまうことを習慣づけられているので、教壇に立っている日本人教師よりもフロアにいるネイティヴの留学生や帰国子女の方が英語が流暢な場合には、教師よりも「発音のいい人間」の意見に従う傾向があるからである。
それも無理はない。
現に私自身の教壇における知的威信の80%くらいは私の日本語話者としての語彙の豊富さと落語に学んだ滑舌のよさによって担保されているからである。
同一のコンテンツであっても、私が仮に外国人であり、学習した日本語で論じた場合には、どれほど文法的に正確な日本語で講じても、学生たちはそれほどには聞き入ってはくれぬであろう。
というわけで、そういうところを卒業した学生たちは「英語がぺらぺらしゃべれる人の告げる情報の重要性と客観性を過大評価する傾向」を刷り込まれて実社会に登場する。
これはもちろんゴールドマンサックスとかウォルマートとかの日本支社のマネージャーからすればたいへん雇用することの楽な労働者であるが、そうではない会社ではあまり役に立たない。
なにしろ、そういう会社では彼または彼女より英語がうまい人間があまりいないからである。
しかるに彼らは「英語がうまい人間の発信する情報の重要性と客観性を過大評価する傾向」を血肉化しているので、いきおい上司や先輩やクライアントよりも「自分の言うことの重要性と客観性を過大評価する」人間となる。
こういう人間は私どもの社会では総じて「バカ」というふうに呼称される傾向にあるので、彼らの企業内部的身分はあまりプロミシングなものとはならない。
けにゃらら大学の総合政策学部はたいへんに英語のよくできる学生を世に送り出したのであるが、あまりに英語運用能力がすぐれ上司に経営学の講義をしてくれたりするのでそれほど英語もできないしMBAも持っていない上司たちからは「使いにくい」ということで現在では企業サイドからは「できれば採用したくない学部」にランクされてしまった。
りにゃらら大学の総合政策学部はそのあとを追って創設されたのであるが、今年の志願者数を見るとなんと前年比39%という悲惨な数値であった。
たにゃらら大学も英語運用能力と国際性の育成を謳って創設されたが、その卒業生の事績として最初に新聞に出たのは放火犯であった(それ以後彼以外の卒業生についてメディアで報じられた例を私は知らないので、その大学は私にとっては今のところ「第一期生で放火犯を出した大学」のままである)。
わにゃらら大学では英語能力だけで人間を価値づける学生を組織的に輩出しそうな気配で、その学部で現に教鞭を執っている先生から「このままではどうなるか心配です」とうかがったことがある。
ともあれ、外国語運用能力をあまり重視することに私はひさしく外国語で飯を食ってきた人間(ほんとに食っていたのよ)の一人として懐疑的である。
外国語なんて大きくなってからで十分である。
子どものときはそれよりも浴びるように本を読んで、音楽を聴いて、身体を動かして、お絵かきをして、自然の中を走り回り、家のかたづけやら皿洗いやら廊下の雑巾がけなどをすることの方がはるかにはるかにたいせつである。
外国語は「私がそのような考え方や感じ方があることを想像だにできなかった人」に出会うための特権的な回路である。
それは「私が今住んでいるこの社会の価値観や美意識やイデオロギーや信教」から逃れ出る数少ない道筋の一つである。
その意味で外国語をひとつ知っているということは「タイムマシン」や「宇宙船」を所有するのに匹敵する豊かさを意味する。
けれども、それはあくまで「外部」とつながるための回路であって、「内部」における威信や年収や情報や文化資本にカウントされるために学習するものではない。
外国語は「檻から出る」ための装置であって、「檻の中にとどまる」ための装置ではない。
役人たちは国民を「檻の中に閉じ込める」ことを本務としている。
その人々が外国語学習の本義を理解していると私は考えることができないのである。
January 20,2008
付出(未完)
我這幾個月來 對勞動相關的文章有興趣
先跟大家分享如下文章
等我有空再討論
不好意思
モラルハザードの構造
摘自:http://blog.tatsuru.com/2008/01/19_0927.php
興味深い記事を見た。
NHK記者ら三人がインサイダー情報による株取引容疑で取り調べを受けているという話である。
この三人は報道局のテレビニュース制作部記者、岐阜放送局の記者、水戸放送局のディレクター。三人の間に連絡を取り合った形跡はない。
それはつまりこのインサイダー取引が「自然発生的・同時多発的」にNHK内で行われたということである。
ということは、「このようなこと」が当該組織内ではごく日常的に行われていた蓋然性が高い。
不正利用されたのはある牛丼チェーンが回転ずしチェーンを合併するというもの。
3人はニュースの放送前にこれを知り、うち2人は「放送までの22分の間に専用端末で原稿を読み」回転ずしチェーンの株を購入。株価は一日で1720円から1774円に上がり、3人は翌日売り抜けて10-40万円の利益を得ていた。
この金額の「少なさ」が私にはこの不祥事の「日常性」をむしろ雄弁に物語っているように思われた。
もし、このインサイダー取引で1億とか2億とか儲けたという話なら、一サラリーマンが千載一遇の機会に遭遇して、ふと魔が差して、してはならないことに手を染めた・・・という解釈も成り立つが、NHKの職員がまさか10万やそこらで「人生を棒に振る」ようなリスクは犯すまい。
ということは、彼らにとってこれはごく日常的な「小遣い稼ぎ」であって、リスクを冒しているという感覚が欠如していたということを意味している。
ニュース原稿は放送前に約5000人のNHK職員が閲覧するそうである。
近年のNHKの不祥事の質を徴する限り、「こういうこと」をしているのが5000人のうちの3人だけであり、かつ今回だけであると信じる人はたぶん日本国民のうちに一人もいないだろう。
私はとくにNHK職員のモラルが世間一般のそれより低いとは考えていない。
たぶん彼らの非常識と非倫理性は「世間並み」であろうと思う。
だから、この事件は現代日本社会に瀰漫しているモラルハザードの構造を理解する格好の手がかりになるはずである。
この3人は取り調べを受けたときに、「え?どうして、こんなことで事情聴取されなきゃいけないの・・・」と不満顔をしただろうと思う。
いったい自分たちはどんな悪事をはたらいたというのか、彼らにはぴんと来なかったからである。
企業活動の変化を市場に先んじて察知した投資家が短期間に莫大な利益を得るというのは合法的な経済活動である。「どうやって知ったか」というようなことは副次的なことではないか、と。
彼らはそう考えたはずである。
だいたいインサイダーというのは、「インサイドにいることでアウトサイドの人間には手が出せない種類の利益を得ることのできる人間」という意味じゃないの?と。
たぶんそうだと思う。
私が興味をもつのは、この「インサイダーはアウトサイダーとの情報差を利用して金儲けをしてはいけない」という「常識」がたぶん彼らにはまるで身体化されていなかったということである。
彼らは「フェア」ということの意味を根本的に誤解しているのだと思う。
おそらく、彼らは子どもの頃から一生懸命勉強して、よい学校を出て、むずかしい入社試験を受けてNHKに採用された。
その過程で彼らは自分たちは「人に倍する努力」をしてきたと考えた。
だから、当然その努力に対して「人に倍する報酬」が保障されて然るべきだと考える。
合理的だ。
だが、「努力と成果は相関すべきである」というこの「合理的な」考え方がモラルハザードの根本原因であるという事実について私たちはもう少し警戒心を持った方がよいのではないか。
前にも書いたことだけれど、当代の「格差社会論」の基調は「努力に見合う成果」を要求するものである。
これは一見すると合理的な主張である。
けれども、「自分の努力と能力にふさわしい報酬を遅滞なく獲得すること」が100%正義であると主張する人々は、それと同時に「自分よりも努力もしていないし能力も劣る人間は、その怠慢と無能力にふさわしい社会的低位に格付けされるべきである」ということにも同意署名している。
おそらく、彼らは「勝ったものが獲得し、負けたものが失う」ことが「フェアネス」だと思っているのだろう。
しかし、それはあまりにも幼く視野狭窄的な考え方である。
人間社会というのは実際には「そういうふう」にはできていないからである。
何度も申し上げていることであるが、集団は「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援し扶助することで成立している。
これを「ノブレス・オブリージュ」などと言ってしまうと話が簡単になってしまうが、もっと複雑なのである。
「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援するのは、慈善が強者・富者の義務だからではない。
それが「自分自身」だからである。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」というのは『マタイ伝』22章39節の有名な聖句である。
それは「あなたの隣人」は「あなた自身」だからである。
私たちは誰であれかつて幼児であり、いずれ老人となる。いつかは病を患い、傷つき、高い確率で身体や精神に障害を負う。
そのような状態の人間は「アンダーアチーブする人間」であるから、それにふさわしい社会的低位に格付けされねばならず、彼らがかりにその努力や能力にふさわしからぬ過剰な資源配分を受けていたら、それを剥奪して、オーバーアチーブしている人間に傾斜配分すべきであり、それこそが「フェアネス」だという考え方をするということは、自分がアンダーアチーブメントの状態になる可能性を(つまり自分がかつて他者の支援なしには栄養をとることもできなかった幼児であった事実を、いずれ他者の介護なしには身動きもできなくなる老人になる可能性を)「勘定に入れ忘れている」からできるのである。
モラルハザードというのは「マルチ商法」に似ている。
自分はつねに「騙す側の人間」であり、決して「騙される側の人間」にはならないという前提に立てば、マルチ商法は合理的である。
騙される側の人間が無限に存在するという前提に立てばこの推論は正しい。
しかし、残念ながら、地球上に人間は無限にはいない。
どこかで地球上の全員が「騙す側の人間」になるというのがマルチ商法が禁忌とされる本来の理由である。
今回のようなモラルハザードは「ルールを愚直に守る人間たちが多数派である場所では、ルールを破る少数派は利益を得ることができる」という経験知に基づいている。
だから、ルール違反をした本人は彼以外の人々はできれば全員が「ルールを遵守すること」を望んでいる。
そうであればあるほど利益が大きいからである。
高速道路で渋滞しているときに、ルール違反をして路肩を走っているドライバーは「自分のようにふるまうドライバー」ができるだけいないことを切望する。
それと同じことである。
しかし、この事実こそがモラルハザードの存在論的陥穽なのである。
「自分のような人間」がこの世に存在しないことから利益を得ている人は、いずれ「自分のような人間」がこの世からひとりもいなくなることを願うようになるからである。
その願いはやがて「彼自身の消滅を求める呪い」となって彼自身に返ってくるであろう。
何度も申し上げていることであるが、もう一度言う。
道徳律というのはわかりやすいものである。
それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。
それが自分に祝福を贈るということである。
世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるというタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。
この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。
そのことを私たちは忘れがちなので、ここに大書するのである。
先跟大家分享如下文章
等我有空再討論
不好意思
モラルハザードの構造
摘自:http://blog.tatsuru.com/2008/01/19_0927.php
興味深い記事を見た。
NHK記者ら三人がインサイダー情報による株取引容疑で取り調べを受けているという話である。
この三人は報道局のテレビニュース制作部記者、岐阜放送局の記者、水戸放送局のディレクター。三人の間に連絡を取り合った形跡はない。
それはつまりこのインサイダー取引が「自然発生的・同時多発的」にNHK内で行われたということである。
ということは、「このようなこと」が当該組織内ではごく日常的に行われていた蓋然性が高い。
不正利用されたのはある牛丼チェーンが回転ずしチェーンを合併するというもの。
3人はニュースの放送前にこれを知り、うち2人は「放送までの22分の間に専用端末で原稿を読み」回転ずしチェーンの株を購入。株価は一日で1720円から1774円に上がり、3人は翌日売り抜けて10-40万円の利益を得ていた。
この金額の「少なさ」が私にはこの不祥事の「日常性」をむしろ雄弁に物語っているように思われた。
もし、このインサイダー取引で1億とか2億とか儲けたという話なら、一サラリーマンが千載一遇の機会に遭遇して、ふと魔が差して、してはならないことに手を染めた・・・という解釈も成り立つが、NHKの職員がまさか10万やそこらで「人生を棒に振る」ようなリスクは犯すまい。
ということは、彼らにとってこれはごく日常的な「小遣い稼ぎ」であって、リスクを冒しているという感覚が欠如していたということを意味している。
ニュース原稿は放送前に約5000人のNHK職員が閲覧するそうである。
近年のNHKの不祥事の質を徴する限り、「こういうこと」をしているのが5000人のうちの3人だけであり、かつ今回だけであると信じる人はたぶん日本国民のうちに一人もいないだろう。
私はとくにNHK職員のモラルが世間一般のそれより低いとは考えていない。
たぶん彼らの非常識と非倫理性は「世間並み」であろうと思う。
だから、この事件は現代日本社会に瀰漫しているモラルハザードの構造を理解する格好の手がかりになるはずである。
この3人は取り調べを受けたときに、「え?どうして、こんなことで事情聴取されなきゃいけないの・・・」と不満顔をしただろうと思う。
いったい自分たちはどんな悪事をはたらいたというのか、彼らにはぴんと来なかったからである。
企業活動の変化を市場に先んじて察知した投資家が短期間に莫大な利益を得るというのは合法的な経済活動である。「どうやって知ったか」というようなことは副次的なことではないか、と。
彼らはそう考えたはずである。
だいたいインサイダーというのは、「インサイドにいることでアウトサイドの人間には手が出せない種類の利益を得ることのできる人間」という意味じゃないの?と。
たぶんそうだと思う。
私が興味をもつのは、この「インサイダーはアウトサイダーとの情報差を利用して金儲けをしてはいけない」という「常識」がたぶん彼らにはまるで身体化されていなかったということである。
彼らは「フェア」ということの意味を根本的に誤解しているのだと思う。
おそらく、彼らは子どもの頃から一生懸命勉強して、よい学校を出て、むずかしい入社試験を受けてNHKに採用された。
その過程で彼らは自分たちは「人に倍する努力」をしてきたと考えた。
だから、当然その努力に対して「人に倍する報酬」が保障されて然るべきだと考える。
合理的だ。
だが、「努力と成果は相関すべきである」というこの「合理的な」考え方がモラルハザードの根本原因であるという事実について私たちはもう少し警戒心を持った方がよいのではないか。
前にも書いたことだけれど、当代の「格差社会論」の基調は「努力に見合う成果」を要求するものである。
これは一見すると合理的な主張である。
けれども、「自分の努力と能力にふさわしい報酬を遅滞なく獲得すること」が100%正義であると主張する人々は、それと同時に「自分よりも努力もしていないし能力も劣る人間は、その怠慢と無能力にふさわしい社会的低位に格付けされるべきである」ということにも同意署名している。
おそらく、彼らは「勝ったものが獲得し、負けたものが失う」ことが「フェアネス」だと思っているのだろう。
しかし、それはあまりにも幼く視野狭窄的な考え方である。
人間社会というのは実際には「そういうふう」にはできていないからである。
何度も申し上げていることであるが、集団は「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援し扶助することで成立している。
これを「ノブレス・オブリージュ」などと言ってしまうと話が簡単になってしまうが、もっと複雑なのである。
「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援するのは、慈善が強者・富者の義務だからではない。
それが「自分自身」だからである。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」というのは『マタイ伝』22章39節の有名な聖句である。
それは「あなたの隣人」は「あなた自身」だからである。
私たちは誰であれかつて幼児であり、いずれ老人となる。いつかは病を患い、傷つき、高い確率で身体や精神に障害を負う。
そのような状態の人間は「アンダーアチーブする人間」であるから、それにふさわしい社会的低位に格付けされねばならず、彼らがかりにその努力や能力にふさわしからぬ過剰な資源配分を受けていたら、それを剥奪して、オーバーアチーブしている人間に傾斜配分すべきであり、それこそが「フェアネス」だという考え方をするということは、自分がアンダーアチーブメントの状態になる可能性を(つまり自分がかつて他者の支援なしには栄養をとることもできなかった幼児であった事実を、いずれ他者の介護なしには身動きもできなくなる老人になる可能性を)「勘定に入れ忘れている」からできるのである。
モラルハザードというのは「マルチ商法」に似ている。
自分はつねに「騙す側の人間」であり、決して「騙される側の人間」にはならないという前提に立てば、マルチ商法は合理的である。
騙される側の人間が無限に存在するという前提に立てばこの推論は正しい。
しかし、残念ながら、地球上に人間は無限にはいない。
どこかで地球上の全員が「騙す側の人間」になるというのがマルチ商法が禁忌とされる本来の理由である。
今回のようなモラルハザードは「ルールを愚直に守る人間たちが多数派である場所では、ルールを破る少数派は利益を得ることができる」という経験知に基づいている。
だから、ルール違反をした本人は彼以外の人々はできれば全員が「ルールを遵守すること」を望んでいる。
そうであればあるほど利益が大きいからである。
高速道路で渋滞しているときに、ルール違反をして路肩を走っているドライバーは「自分のようにふるまうドライバー」ができるだけいないことを切望する。
それと同じことである。
しかし、この事実こそがモラルハザードの存在論的陥穽なのである。
「自分のような人間」がこの世に存在しないことから利益を得ている人は、いずれ「自分のような人間」がこの世からひとりもいなくなることを願うようになるからである。
その願いはやがて「彼自身の消滅を求める呪い」となって彼自身に返ってくるであろう。
何度も申し上げていることであるが、もう一度言う。
道徳律というのはわかりやすいものである。
それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。
それが自分に祝福を贈るということである。
世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるというタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。
この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。
そのことを私たちは忘れがちなので、ここに大書するのである。
研究題目和心理創傷(未完)
我還在寫期末報告
先寫完報告在寫對如下文章的感想
看這篇文章後覺得
我的病情很嚴重orz
« 「神々」の声 | メイン | モラルハザードの構造 »
摘自:http://blog.tatsuru.com/2008/01/17_0935.php
「ふつう」のススメ
卒論を四年生たちは全員無事にご提出されたようである。
めでたし、めでたし。
最後のゼミで、ひとりひとりから卒論の自己採点をうかがいながら、私の感想を申し述べる。
読んでわかったことがある。
それは、学生諸君は卒論において個人的に切迫した問題に迂回的に触れている、ということである。
なもん当たり前じゃないかと言うなかれ。
そうでもないよ。
というのは、ご本人にとって切迫した問題に触れているなら、どうしてその卒論主題を選んだかをすらすらと言えるはずである。
それが意外なことに、それを自分では言えないのである。
それが「自分にとって切迫した問題である」ということをご本人が意識していないのである。
そういうものを何と呼ぶのか、みなさんにはもうおわかりであろう。
そう、「トラウマ」である。
抑圧された心的過程は症状として顕在化する。
卒論はその意味で学生諸君の「症状」なのである。
聞いてびっくりですね。
とはいえ、病態にはかなり個人差がある。
「なるほど、私が心にかかっていたのは『このこと』だったのか」ということを卒論を書いている過程で意識化できた学生がおり、結局自分が何を書いているのかわからなかった学生もいる。
そして、この意識化の程度は、論文の「論理性」とほぼ相関している。
その論題を選んだ「ほんとう理由」を意識化すことに強い抵抗が働いている場合は、彼女たちの筆が問題の本質に近づくたびに、議論は必ずあらぬ方向に逸脱する。
だから、論述はひたすら水平的に拡散し、しばしば「トリビア的知識」が漫然と羅列されたり、支離滅裂な展開になったりする。
しかし、自分でうまく処理することのできないトラウマ的問題に取り組んでいる勇気を私は論理性と同じくらいに高く評価する。
卒業に際しての「むまのはなむけ」として、トラウマ的主題へのアプローチの仕方についてひとことアドバイスを差し上げたいと思う。
総じて、彼女たちにとっての「トラウマ的主題」は自分の存在根拠にかかわっている。
当たり前と言えば当たり前である。
平たく言えば、「ほんとうの私」と「みんなが見ている私」のあいだの「ずれ」、自己評価と外部評価の齟齬に彼女たちは苦しんでいる。
もっと若いときであれば、「みんなが見ている私」の欺瞞性や演技性をカミングアウトして、「『ほんとうの私』を知って!」というような定型的な書き物になるのであろう。
だが、さすがに大学卒業時となってくると、そんな「中学生ドラマ」みたいな台詞は恥ずかしくて口にはできない。
「『ほんとうの私』を知って!」という語法そのものがあまりに定型的で手垢のついたものあることがわかってきたせいで、「定型的な言葉づかいでしか記述できない『ほんとうの私』って・・・・ほんとうに『ほんとう』なんだろうか」という疑念が兆すのである。
それよりはむしろ「みんなが見ている私」「演技している私」の方がはるかに「個性的な人間」だということがだんだんとわかってくる。
「あなたって変わってるわね」とよく言われる。
本人的には「ふつうの人」に見られるように、必死に「演技」をしているはずなのであるが、周りの人はなかなか「ふつうの人」に見てくれない。
ということは、ご本人が「ふつう」と思っている標準値の取り方が「『ふつう』じゃない」ということである。
意外なことに、個性というのは「私ってこんなところが変わってるでしょ?」というかたちでは決して表現されず、「これが『ふつう』よね?みんな、そうよね?」という無反省的な確信を通じて露呈するのである。
そのこと二十歳くらいで気がつく。
そこではじめて「みんなが見ている『ふつうのふりをしている私』」とはどういうものであるか?」というかたちの自己点検が始まる。
卒業論文はその仕上げのためのものである。
卒業論文というはフォーマットが厳密に決まっている。
どうしてフォーマットが厳密に決まっているかというと、そういう外形的なしばりをかけた方が個性が露呈しやすいからである。
「自由に書いていいよ」というようなことを言ったら、学生たちはそれぞれの「個性ゆたかな」ものを書いてくるであろうが、それはしばしば死ぬほど退屈なものになるリスクがある。
卒業論文は学術論文であるから、多くの人から(少なくとも指導教員からは)「たしかにこれはだいじな問題だよね」という同意が取り付けられる見通しがないと書き始められない。
そして、「この問題にはみんなも関心を持っているに違いない」という「ふつうの選択」において個性は際だつのである。
というわけであるから、これから卒業する諸君に申し上げたいのは、「心おきなく『ふつう』にしていなさい」ということである。
諸君にとっての「ふつう」は諸君のいちばんすなおな演技であり、けれんのない作品である。
「ふつう」を通じて諸君の「唯一無二性」はもっとも鮮やかにその輪郭を表すであろう。
グッドラック。
先寫完報告在寫對如下文章的感想
看這篇文章後覺得
我的病情很嚴重orz
« 「神々」の声 | メイン | モラルハザードの構造 »
摘自:http://blog.tatsuru.com/2008/01/17_0935.php
「ふつう」のススメ
卒論を四年生たちは全員無事にご提出されたようである。
めでたし、めでたし。
最後のゼミで、ひとりひとりから卒論の自己採点をうかがいながら、私の感想を申し述べる。
読んでわかったことがある。
それは、学生諸君は卒論において個人的に切迫した問題に迂回的に触れている、ということである。
なもん当たり前じゃないかと言うなかれ。
そうでもないよ。
というのは、ご本人にとって切迫した問題に触れているなら、どうしてその卒論主題を選んだかをすらすらと言えるはずである。
それが意外なことに、それを自分では言えないのである。
それが「自分にとって切迫した問題である」ということをご本人が意識していないのである。
そういうものを何と呼ぶのか、みなさんにはもうおわかりであろう。
そう、「トラウマ」である。
抑圧された心的過程は症状として顕在化する。
卒論はその意味で学生諸君の「症状」なのである。
聞いてびっくりですね。
とはいえ、病態にはかなり個人差がある。
「なるほど、私が心にかかっていたのは『このこと』だったのか」ということを卒論を書いている過程で意識化できた学生がおり、結局自分が何を書いているのかわからなかった学生もいる。
そして、この意識化の程度は、論文の「論理性」とほぼ相関している。
その論題を選んだ「ほんとう理由」を意識化すことに強い抵抗が働いている場合は、彼女たちの筆が問題の本質に近づくたびに、議論は必ずあらぬ方向に逸脱する。
だから、論述はひたすら水平的に拡散し、しばしば「トリビア的知識」が漫然と羅列されたり、支離滅裂な展開になったりする。
しかし、自分でうまく処理することのできないトラウマ的問題に取り組んでいる勇気を私は論理性と同じくらいに高く評価する。
卒業に際しての「むまのはなむけ」として、トラウマ的主題へのアプローチの仕方についてひとことアドバイスを差し上げたいと思う。
総じて、彼女たちにとっての「トラウマ的主題」は自分の存在根拠にかかわっている。
当たり前と言えば当たり前である。
平たく言えば、「ほんとうの私」と「みんなが見ている私」のあいだの「ずれ」、自己評価と外部評価の齟齬に彼女たちは苦しんでいる。
もっと若いときであれば、「みんなが見ている私」の欺瞞性や演技性をカミングアウトして、「『ほんとうの私』を知って!」というような定型的な書き物になるのであろう。
だが、さすがに大学卒業時となってくると、そんな「中学生ドラマ」みたいな台詞は恥ずかしくて口にはできない。
「『ほんとうの私』を知って!」という語法そのものがあまりに定型的で手垢のついたものあることがわかってきたせいで、「定型的な言葉づかいでしか記述できない『ほんとうの私』って・・・・ほんとうに『ほんとう』なんだろうか」という疑念が兆すのである。
それよりはむしろ「みんなが見ている私」「演技している私」の方がはるかに「個性的な人間」だということがだんだんとわかってくる。
「あなたって変わってるわね」とよく言われる。
本人的には「ふつうの人」に見られるように、必死に「演技」をしているはずなのであるが、周りの人はなかなか「ふつうの人」に見てくれない。
ということは、ご本人が「ふつう」と思っている標準値の取り方が「『ふつう』じゃない」ということである。
意外なことに、個性というのは「私ってこんなところが変わってるでしょ?」というかたちでは決して表現されず、「これが『ふつう』よね?みんな、そうよね?」という無反省的な確信を通じて露呈するのである。
そのこと二十歳くらいで気がつく。
そこではじめて「みんなが見ている『ふつうのふりをしている私』」とはどういうものであるか?」というかたちの自己点検が始まる。
卒業論文はその仕上げのためのものである。
卒業論文というはフォーマットが厳密に決まっている。
どうしてフォーマットが厳密に決まっているかというと、そういう外形的なしばりをかけた方が個性が露呈しやすいからである。
「自由に書いていいよ」というようなことを言ったら、学生たちはそれぞれの「個性ゆたかな」ものを書いてくるであろうが、それはしばしば死ぬほど退屈なものになるリスクがある。
卒業論文は学術論文であるから、多くの人から(少なくとも指導教員からは)「たしかにこれはだいじな問題だよね」という同意が取り付けられる見通しがないと書き始められない。
そして、「この問題にはみんなも関心を持っているに違いない」という「ふつうの選択」において個性は際だつのである。
というわけであるから、これから卒業する諸君に申し上げたいのは、「心おきなく『ふつう』にしていなさい」ということである。
諸君にとっての「ふつう」は諸君のいちばんすなおな演技であり、けれんのない作品である。
「ふつう」を通じて諸君の「唯一無二性」はもっとも鮮やかにその輪郭を表すであろう。
グッドラック。