June 26,2011

カナシバリ?



日本で初めて、カナシバリにあった。

金曜の夜、バイトの翻訳を終わらせるために徹夜し、土曜の朝に電車で山梨県にエスペラントの合宿に参加しに行ったので、けっこう疲れたせいか、土曜の夜に不気味の夢を見た。いや、カナシバリにあったと思う。アレに押さえつけられる前に、確かに変な夢を見たのだが、いきなり、ある大きな不思議なパワーに押さえつけられた。そしてアレを振り払いながら、「行け!去って!」などといくら叫んでも、声も出せず、まったく動かせなかった。「主の祈り」などを必死に読んできて、何分間か分らないのだが、やっと、アレが去った!となりの人から「阿弥陀仏」と言ってくれたような声を聞こえた(アレ、日本語の「阿弥陀仏」と台湾語の同じか、と思いながら)。

やっと目を覚まし、心臓の鼓動も聞こえるほど荒い息をした。時計を見たら、12時半頃。本当に怖かった!!でも、今朝、となりの人にこのことについて聞いたら、えぇ、なにも気付かなかったって。彼女にびっくりさせてしまったかなと思ったんだけど、いったい誰かが「阿弥陀仏」と言ってくれたのか。

台湾にいた時も1回、2回かそういう経験があったのだが、やっぱ、扇風機もつけてないので暑すぎたか、寝不足もあるか、まさか日本に来てもそういうことにあった。しかも山梨県の福祉センターで?!

カメラをもっていくのを忘れたので、携帯で山梨県の石和温泉駅でこの写真をとった。その福祉センターは駅の近くにある。

bichhin發表於 樂多23:17回應(0)引用(0)感情の行き違い

March 6,2011

「ビーフン焼き」の作り方

日本に来て以来、ビーフンを作ることはもう10回以上だった。簡単ではないけど、難しくはないので、日本人の友達が家に来たら、よくビーフンを作った。去年の日本のお正月、YWCAのお母さんに家に行くのを誘われ、ビーフンを作って持って行った。お母さんのご家族はとてもおいしいと言ってくれた。昨日、お母さんに春の交流会でビーフンを作ることを頼まれたため、朝六時半に起きて、10人分のビーフンを作って、YWCAに持って行った。YWCAのお母さんたちやほかの留学生たち、皆はとてもおいしいと言ってくれて、うれしかった!

今回はレシピを作ってもらえばと言われたので、いちおうレシピを書いた。けど、実は、毎回毎回作ったビーフンの味は全然異なった
舌。作りたい方がいれば、(適当に)ご参考くださいね。

ところで、こちらのタイトルは「焼きビーフン」ではなく、「ビーフン焼き」なんだよ。だって、「炒米粉」の言い方は北京語に影響されたのだ。台湾語では「米粉炒」(ビーフンチァー)と言うんだよ。(関西のある地方でも「焼きそば」や「焼きうどん」ではなく、「そば焼き」や「うどん焼き」と言うらしい。)北京語に影響されすぎて、今の「台湾小吃」で、「名詞」+「動詞」という食べ物の言い方は、たぶん「蚵仔煎」しか残っていないだろう。

http://b1.rimg.tw/bichhin2009jp/ac606cbb.jpg ...繼續閱讀

February 27,2011

君の聴いたことを行うため、君の会に赴くため

日本語を練習するため、チューターの協力で、2009年に書いたものを和訳しました。原文はこちらですここもあります)。翻訳しながら、自分が何のために日本に来たのかを喚起されたような気もしました。
http://b0.rimg.tw/bichhin2009jp/34744794.jpg
写真1:頼和、1941、奈良。頼和記念館より)

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必ずしもそうとは限らない。その中心にいる人たちの多くは、日本留学生や有産の知識階級で、時代の潮流に刺激されて立ち上がったに過ぎず、十分な覚悟があるとは思われない。だから、彼らはおのずと積極的に闘争することはできず、講演会を開くことぐらいしかできないのだ。」--頼和〈会に赴く〉(赴會)

現実離れした学術界で頼和を読み始めた時、私は頼和が乗った「会に赴く列車」がうらやましく思った。彼と一緒に「ほとんど労働大衆で埋め尽くされ、知識階級者のような人は一人もいないような三等車」に乗り、労働大衆たちの声に耳を傾けたいと思ったことがある。だが、彼の感動と彼自身の偉大さをあおぎみることしかできないのだろうか。私はもう物事の成り行くままに従うことにした。そして、この時代に属する「職業用語」と非常に専業的な「術語」を作り、歴史の発展をかえりみずに「ブランド」を自製するうず巻きのなかに巻き込まれた。我々は、いわゆる「客観的」な態度で知識の剣を備え、無数の「講演会」を開き、絶えず生まれる苦難を消し去ろうと企む上、さらにそれを抹殺しようとする。

のちの2008年の秋、私は頼和が生きた時代の「植民地本国」に来た。自分の語り口を頼和時代の「台湾国語」のなまりにしようとしながら、日本式台湾語漢字を書いた彼の姿を思い起こし、彼が歴史によって変えられることにあらがう気持を、追体験したいと思ってきた。だが、台北より金のにおいが強い東京城に安易に生きている私は、自分の舌がいつの間にか変ってしまったことに気づいた。さらに、「会に赴く列車」から脱線してしまった自分に驚いた。

かつて、私は無知にも、「もし頼和が戦争を渡って生きてきたとしたら、新たな植民地本国に直面した時、228事件や白色テロから逃れることができたかな」と友達に聞いた。友達は「死んじゃっても忠烈祠から駆り出されただろうに、逃れることなんてできないのは当然だよ」と苦笑した。

ある日、私は京都行きの夜行バスの中にいた。そして頼和がかつて奈良で鹿と記念撮影したように、鹿と戯れる自分の姿を想像し、興奮したため、眠れなかった。いくら鹿と触れ合っても、時代は、やはり私の愁いを頼和のような奥深い憂うつに鋳造することはできない。そして、頼和の訪ねた寺院や小道を歩き、彼の早世を思い起こすと、ようやく安心することができた。すこし失礼かもしれないが、それは彼の幸運だと感じた。

先駆者の体はより大きな苦難を避けるができた。それは慰めに値するのである。彼には、自分の文学の魂を遥かに惜しんで仰ぎ見られていることや、文学の高尚さをナショナリズム的な論述の中で中途半端に解釈されていることを知る機会がなかった。そうでなければ、いつかまた王朝が交代する時、繰り返し歴史を探索することには、堪えられないだろう。

非常に多くの君の後継者が君の旗を掲げ、イデオロギー的立場を自己表明している。私が感じた君の幸運は、ついに哀惜に戻ったことだ。歴史の行き先がまだ定まっておらず、多すぎる可能性が生じているからである。そうであっても、頼和、君は依然として庶民に耳を傾けるのを忘れず、知識人の会に赴くのも忘れなかった。君にはきっと未だ書いてないものがあり、きっともう一つ理想の会にも赴きたかっただろう。だが、私もこのことのために、君の生きた時代の植民地本国に来たのだから。君が遠く庶民から離れようとし、またその近くに寄り添おうとする姿勢を試みている。君の聴いたことを行うため、君の会に赴くため。

漢文:2009/5/19;和訳:2011/02/18
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January 24,2011

エスペラント

最近、本気でエスペラント語を勉強しはじめている。そもそもこの言語に全然興味がなかったので、せいぜい博士論文の一節で簡単に触れるだけでいいと思ったけど、不思議な縁かな、思いがけず『Verda Ombro』を見つけた。しかも『Verda Ombro』だけじゃなく、『La Formoso』や『Informo de F.E.S』など、多くの幻の資料を見つけた。なぜ私なんだろうか、自分も信じられないぐらいずっと自分に問いかけている。それのきっかけでエスペラントと当時のエスペラントに関する思想などを興味に持つようになった。

エスペラントの思想のことはよくわからないので、なぜ連温卿は台湾語に関心を持ったのに、エスペラント運動を進めたのか、矛盾していないのかなと思った。甘かったなあ!エスペラントの扉を開いてから、少なくとも連の思いが分かるようになってきた。エスペラントはエスペラントじゃなくて、その背後にある社会主義、アナキズム、階級闘争の意識などは、私にとって、これからより取り込むべき学問だ。なぜ当時の台湾人がエスペラントを推進したのか、やはりそれは階級闘争の一つの手段として機能したほか、反帝国主義の日本語の一つの実践だった。だから、連はエスペラントを推進しながら、台湾語の文法作成も試み、彼のナショナリズムはすでに形成していたのだ。国家的ナショナリズムに達してないかもしれないけれど、統一派のような「左の目」だけで連を見て、いつも当時の左翼の知識人を「祖国派」とイコールにみなした、というようなことは間違っていた。連らの解放しようとした対象は「全体の台湾人」だろう。見逃さないで!

修士時代の指導教授にお誕生日のお祝いとともに『Verda Ombro』のことをメールで伝えた。先生も「『Verda Ombro』の発見は本当にとんでもないことだよね!これは一番よいプレゼントだ!とても感動している!やったね!これから、いろいろな課題が見えてくるぞ!」とすごく喜んで返事してくれた。このような励ましがずっとあったので、自分は多くの苦境を乗り越え、ここまでたどり着くことができた。このような励ましがあるので、これからもおそれず前向きに歩んでいこう。

エスペラントは確かにそんなに難しい言語じゃないけど、年をとって単語をなかなか覚えられない私には、確かに難しい。でも、このような感じの刺激がすきなので、これから、その刺激をかみしめながら、頑張って勉強しようと思っている。

bichhin發表於 樂多21:13回應(0)引用(0)言霊の中に

December 3,2010

眠れない

実家に住んでいた子供の頃、朝の声は鳥。青春の大学時代、朝の声は朝食店。水上に引っ越しした後、朝の声はとなりの塾の生徒。半熟の修士時代、朝の声は運動場。台北に働いた頃、朝の声は伝統市場。日本の板橋にいた時、朝の声はカラス。いまの国立、朝の声は、週末さえも何も聞こえない。

久しぶりの朝四時起きる。今はもう六時、全然眠い気がしない。冬の雨が降ってる。このような声を聞くのが懐かしいわ。 毎日台湾の五都選挙についてを話す番組を見ているせいか、
最近よく台湾のこと、特に昔のことを思い出している。本当に帰りたいなー。

変化しつつある台湾と一緒に変えたい。

変化しつつある台湾を実感したい。

bichhin發表於 樂多05:17回應(0)引用(0)感情の行き違い

October 3,2010

蕁麻疹

人生初めての蕁麻疹。全身で吹き出物が出てきて、足も、手も、背中も、顔と頭までも。夜中に耐えられないほど痒くて、眠れなかった。

日本の病院やクリニックでは日曜定休は普通なので、なかなか診査を受けるところを見つけなかった。やっと、近くのさくら病院で内科の先生は診てくれた。先生は私の症状をみると、すぐ「蕁麻疹」と診断した。1日で治れると言われたが、ネットで調べたら、何ヶ月もマシンを続けて出るようだ。困るわ。

冬学期はもう始まって、これから、ずっと出たらどうすればいいだろう。

bichhin發表於 樂多16:01回應(1)引用(0)感情の行き違い

June 20,2010

台湾文学--とげがある色とりどりのバラ

先々週の作文テーマは「比喩」でした。やはり自分が一番関心することがうまく書けたのだと思います。(しかも、初めて先生に褒められたのですが、、、[笑]。)

長い間に、「台湾文学」は名分が正しく存在していなかった。先史時代を除き、台湾の歴史はおよそ400年であり、植民地の歴史だと言える。ずっと植民地だったため、教育現場で台湾の歴史や文化などが教えられなかった。1990年代以降の台湾は、民主化運動とともに、社会で大きな変化が起こり、「台湾文学」という研究が始まり、2000年以後、台湾文学という「学問」がようやく本格的に樹立された。私の修士課程の専攻は「台湾文学」であった。

台湾文学は何だろうか。台湾文学は何の比喩を使って説明しやすいだろうか。植民地教育や「国語」教育を受けたため、台湾語で文学作品を書ける人は少なかった。いずれにせよ、1922年に、作家謝春木の「彼女は何処へ」という日本語で書かれた小説が発表され、それが台湾文学の初めての現代小説だとみなされた。その後、台湾文学の「女性的」イメージ、すなわち、残されたもの、虐げられたもの、支配されたもの、かわいそう、というような印象が定着されていたようである。とはいえ、台湾文学はいつもそんなに悲惨ではなく、作品を読むと、きれいに咲いている、色とりどりのバラだと思われる。さらに「とげがある色とりどりのバラ」でたとえを言えば、より深く感じられるかもしれない。

遠くからバラを見ればきれいに見えるし、十分だと思われてしまい、とげがあることが忘れられ、色とりどりでぼんやりされてしまう。このように、ただ遠くから台湾文学を見ると、オランダ文学か、キリスト教文学か、あるいは中国文学か、日本文学か、と思われてしまうかもしれない。なぜかというと、かつて多くの国に支配されたため、台湾文学も多くの国の文学に影響されたからである。言い換えれば、進化したプロセスの中で、一般の花と違い、いろんな色が染められ、きれいなバラは自分の体を守るため、生まれつきとげがあるようになった。
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May 27,2010

【ウソ】会ったことがない夫

今週のテーマは「ウソ」ですが、この作文の一段落目は本当の話ですよ。でも、日本語先生から「冒頭のウソはおもしろい。具体的でよい。」というのを評していただきました。ハハ。

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「冥婚」という話を聞いたことがある?未婚の若い女が亡くなったら、魂が自分の祖先と一緒になれないため、家族は彼女の魂が宿無しにならないように、ふさわしい男を探し、彼に彼女の「位牌」をめとらせるようなことである。すなわち、生きる男が亡くなった女と結婚することである。位牌をめとる男はほかの女と結婚でき、しかも多くのよいことが招けるので、「冥婚」をした人は少なくなかったようである。なので、「娶柴頭」(tshuā-tshâ-thâu;柴で作られる位牌をめとる)という台湾語のことわざが民間で昔から伝われた。
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bichhin發表於 樂多15:22回應(0)引用(0)本音と建前